クオン・デの写真 クオン・デと妻チャン クオン・デ台北での活動 クオン・デの墓
台北の他の家族とのスナップ 手前に長男の墓
(2004年建設)
グエン王朝から離れ日本へ密航、革命家の道へ、フランスからの独立を夢見て祖国に戻れず日本で死亡
ゲリラ戦で近代兵器を持つフランスへの抵抗運動の限界を感じ日露戦争勝利に刺激を受けたフランス植民地下のベトナム改革派はベトナムの若人の教育の必要性を感じ日本への留学を奨励した。(東遊運動)グエン王朝の末裔クオンデ候は密航し(1906年、24歳)ファンボイチャウ達が結成した維新会の会長に就任。フランスからの独立に危機感を持ったフランス政府は日本政府に圧力をかけ改革派をベトナム本国への召還をせまりファンボイチャウは中国広州に身を寄せたがクオンデ候は本国に帰ることも叶わず日本で69歳の生涯を閉じた。クオンデ候がベトナムから突然姿を消したことを悔やみその帰りを待ち続けたお妃(レ・テイ・チャン)の心情を憐れみ王宮の池に咲いていたヒヤシンスのような紫の花をつけた花を”日本の花”と呼んだ。一方、ファンボイチャウは中国でベトナム解放運動を続けフランスによって幽閉され上海で逮捕、ハノイに戻り終身刑を受けたが世論に押され釈放、その後フエの自宅軟禁。1940年10月29日フエの自宅で生涯を閉じる。
1907年日仏協約締結 フランス政府が日本にクオン・デの引き渡しを要求
(日露戦争は表面的には日本の勝利となったがロシア南下政策に恐れをなした日本はロシアと敵対していた英国とは異なりロシアと親密なフランスの要求を受け入れる以外に方法はなかった。)
関連図書解説運用 ウエッジ社
「安南王国」の夢――ベトナム独立を支援した日本人―
牧 久 著
明治45年1月、一人の少年が故郷・天草から船でベトナムへ旅立った。ベトナムはフラン
スの植民地(仏領インドシナ)で、「一旗あげて帰ってくる」との大志どおり、彼は苦難
の末、かの地で商社「大南公司」を創業する。だが彼、松下光廣の大志は商売で大儲けす
ることではなく、被支配の苦境にあえぐベトナム人民を支援して、ベトナム独立を勝ち取
ることへと変貌していた。
一方、ベトナム独立を志す革命家ファン・ボイ・チャウ(1905年密航)はグエン朝の末裔
クオン・デ侯(1906年密航)を 擁立して、日本へと密航する。彼らを日本で支援したのは
犬養毅、大隈重信、大川周明、 頭山満らの面々だった。
時は太平洋戦争開戦の直前、日本軍の仏領インドシナ進駐に乗じてフランス軍と一戦をま
じえ、独立を達成しようとするクオン・デたち。だが日本の軍隊はフランス軍との戦いを
回避して撤退。ベトナムの復国同盟軍はあえなく敗退することとなった。そして、終戦間
際の昭和20年3月、日本軍は「仏印処理」の名目でフランス総督府に対し、クーデター
「明号作戦」を決行する。松下光廣や大川周明の門下生たちは日本軍に合流し、仏領イン
ドシナはフランスの長いくびきを脱して一瞬の独立を果たす。だが、独立したベトナムの
王に日本軍が推挙したのはクオン・デではなく、フランスの傀儡・バオダイ帝だった(や
がて、日本の敗戦によってベトナムは再びフランスの支配下となる)。
「安南の王子」クオン・デは祖国復帰の願いを抱いたまま、昭和26年、さびしく東京で客
死する――。
フエでクオンデ候のお墓を守るお孫さん
クオンデ候は初代ザーロン帝の末裔で帝の長男である景(カイン)皇子は早死(21歳)のため即位は第二夫人の子ミンマン帝となった。クオンデがザーロン帝の5代目の直系であることを独立運動に利用するためにファンボイチャウは彼を誘い日本へと密航した。日本での民主化運動及び没後はお孫さんがクオンデの位牌を仏壇に供えお墓を守っている。このお孫さん、リエンマイ(Lien Mai)はフエ郊12Duytan(ユイタン通り、5代育徳帝廟の近所)に狭い家を構え体制の交代で周囲の土地もすべて国のものとなった。クオンデのお墓はさらに郊外の山奥にひっそりと建てられ王族の末裔とは思えないほど質素なお墓だ。同志のファンボイチャウがフエで”独立の父”とまで尊敬されフエの家(記念館)の豪華なお墓に安置されている姿に比べて日本に頼りすぎたクオン・デの評価、扱いは異なる。クオンデの妻のお墓も生前ファンボイチャウが同志のために用意したファンボイチャウ墓地に埋葬されており墓碑には、「LE THI TRAN」 (1883~1956)と記されている。社会体制が変わり歴史上の出来事を学ぶ機会がない若者には縁遠い話となってしまいました。
フエ学研究家Phan Thuan An氏(旧市街 31 Nguyen Chi Thanh) 電話054-352-5411
(東遊運動、ベトナム独立運動の活動に詳しいフエの有名人)現在でも古民家として多くの観光客が訪れアン氏自らフエの歴史を説明、講義する。