ベトナム国旗は赤地に黄色の星(金星紅旗)赤は国民の熱い血の色 黄色は肌の色、民俗の団結。

 

グエン王朝初代~13代(1802年~1945年)

1010年、李朝はハノイに遷都し、1802年まで都として存続した。その後、陳朝、後黎朝などを経て、北部は鄭(チン)氏、南部は阮(グエン)氏の支配(230年)が続き南部は1613年に父阮潢(グェン・ホアン)(15251613)を継いで君主となる若き日の阮福源(グェン・フック・グェン)(15631635)の時代に日本との朱印船貿易が盛んだったと言われる。熊本の武士荒木宗太郎は商人となり朱印船(荒木船)の豪商として阮福源(グェン・フック・グェン)と親しくなりその娘(アニオー姫)と結婚日本との交流が長崎貿易を通じて賑わった。1802年、ベトナム最後の王朝・阮朝は中部のフエに新しい都を建てた。

 

 

フエ郊外には、グエン朝の皇帝たちの廟(位牌を安置する場所)が点在している。13人のグエン朝の皇帝のうち、廟が存在するのは、
1.
ザロン帝、2.ミンマン帝、3.ティエウチ帝、4.トゥドゥック帝、5.ズクドゥック帝、9.ドンカイン帝、12.カイディン帝の7人だけ。他の6人については様々な事情があって造営されていない。特に子供のいなかった4代トゥドゥック帝は3人の養子を迎えたが3人の跡継ぎはすべて短い在位に終わっている。5代ズクドゥク帝は在位3日、6代ズクドゥク帝は在位4ケ月、7代キエンフック帝は在位6ケ月。

143年の王朝期間で皇帝が13人も変わるということは異常でありフランスの傀儡政権であったことは否定できない。フランスに反抗的な皇帝は排除されフランス政府の言いなりに翻弄されたグエン王朝とも言える。特にベトナム共産党はフランスの力を借りて建国したグエン王朝を嫌う傾向がある。その後、フランスの植民地という圧政で苦悩の連続であったことを思うとうなづける。しかし南部サイゴンでの評価は必ずしも一致しない。南部サイゴンの繁栄はグエン朝が北部を滅ぼしたからだという評価もある。

 

 (  )内は在位期間

初代ザーロン帝(17年) 2代ミンマン帝(21年) 3代ティエウチ帝(7年) 4代トゥドゥック帝(36年)   

清より越南国号をもらう キリスト教弾圧      漢詩を好み質素    18歳で即位最長在位

長男景(カイン)21歳死亡科挙制度、中華思想  キリスト禁止令     フランスに対抗して敗退

5代目孫クオンデ候    13代パオダイは末裔                子供がなく後継に悩む

不名誉な越南国よりも   フランスを嫌う

対外的には大南を使用

8代ハムギ帝(1年)   9代ドンカイン帝(3年) 10代タインタイ帝(19年)  11代ズイタン帝(9年)

14歳で即位        22歳で即位26歳死去  ドンカイン帝の従弟の子  フランス抗戦で退位       

フランス徹底抗戦    フランスの傀儡                 クオン・デが候補(拒絶)       航空事故にて死亡

ゲリラ戦と近代兵器                     (傀儡政府を嫌う)      1916年フエ王宮脱出逮捕

アルジェリアに護送死亡                                    インド洋孤島に島流し

                              5代ズクドウック帝近くに10代、11代の墓がある。

12代カイデイン帝(9年) 13代バオダイ帝(20年)2代ミンマン帝の末裔

墓建設の為の増税    日本軍(バオダイ存続)傀儡政権ベトナム国成立    

仏国保護の贅沢な生活  ベトナム(クオン・デ帝位)独立希望(失敗)

                1945年8月革命で退位(9月2日ホーチミン臨時革命政府)

                ベトナム民主主義共和国へ(1945年9月2日)中国、ソ連、英国承認 

                  フランスバオダイを担いでサイゴンのベトナム国樹立(1955年)

                フランスへ亡命

                  

フランスのインドシナ連邦と同化政策

フランスはインドシナを5つの領域に分けた。

トンキン(北ベトナム)アンナム(安南中部ベトナム)コーチシナ(南部ベトナム)カンボジア(カンボジア王国)ラオス(ルアンプラヴァン王国)に分け、国王、王朝の宮廷があるアンナム、カンボジア、ラオスを保護国としトンキンを保護国、半植民地化、コーチシナを直轄の植民地とした。

 

 

王宮太和殿
王宮太和殿
フォンニャ洞窟
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ホイアン日本橋
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ミーソン遺跡
ミーソン遺跡