ザーロン皇帝の末裔クオンデ40年の亡命生活と日本

写真資料 静岡県袋井市浅羽会 クオン・デ(左) ファン・ボイ・チャウ(右)

日本でベトナム独立を夢見た2人

革命指導者 ファン・ボイ・チャウ 1905年ベトナムから日本へ密航 1940年フエで死去

初代ザーロン帝の末裔クオン・デ 1906年ベトナムから日本へ密航 1951年日本で死去  

 

 

 

以下は高山正之著 植民地の日々「20世紀特派員」から概略引用

 潘(ファンボイチャウ)はこの「東遊運動」とともに、もうひとつ、ベトナム独立の悲願  

のために民族派の秘密結社、維新会のリーダーに推挙されたクオンデ侯(11代維新帝の守  

を日本に密航させることだった。  

クオンデはベトナムを統一した嘉隆帝(ザーロン帝)の直系5代目に当たる。国王の座  

に最も近い皇子を亡命させれば、日本も本気でベトナムに目をむけるだろう、というのが 

潘の読 みだった。

潘は人を介してクオンデに日本の状況を伝え、祖国脱出を訴えた。クオンデには美しい妃

と3人の子供がいた。フエの王城は植民地政府が厳重な警備を敷いていることを除けば、

日々を暮らすには何不自由はなかった。日本への脱出はそれらをすて捨て去ることになる 

が、クオンデは ためらうことなく潘の申し出を快諾した。

1906年2月、クオンデは王城を出た。「貧しい農民の身なりで海岸に至り、ジャンク

でハイフォンに行き、そこからフランス汽船に火夫として乗り込んで香港」に渡り、さら

に2カ月かけて4月、クオンデは念願の日本に一歩を踏んだ。24歳の春だった。それは 

同時に美しい妃とも3人の子供たちとも再び会うことのないクオンデの半世紀に渡る流浪

の旅の始まりでもあった。

*ファンボイチャウは後年孫文の三民主義に刺激されベトナム光復会を設立するがクオ  

ン・デを担いで目指したのは立憲君主国であったが内容はベトナム共和国への流れへと変 

わって行った。       

潘佩珠(ファン・ボイチャウ)の紹介で会った日本の要人も好意的だった。犬養毅もその1

人で、ベトナムに深い同情を寄せた。ただしクオンデが会長となっている「維新会」は本 

国でテロ活動を行っている反仏抵抗組織であり、日本側も彼に公然と名乗らせる訳にはい 

かなかったが「安南の皇子」で通っていたという。

*維新会 1904(明治37)、潘佩珠を中心に、クオンデを盟主に推戴して結成されたベ

トナム民族運動組織。活動の中心は日本に置かれ、日本への留学を推進する東遊運動(

ンズー運動)や抗仏武力闘争の準備を進めた。

クオンデはここを根城に大隈重信、宮崎滔天(とうてん)、頭山(とうやま)満らと会いベトナ 

ムの青年志士が集まって独立の夢を語り合った。学生たちは2年前に孫文が東京で旗揚げ 

した「中国革命同盟会」に刺激を受けたといわれる。

しかし、クオンデのもうひとつの訪日の目的、日本を動かして独立の支援を得る工作は 

遅々として進まなかった。日本を頼って来ながらも、その日本から国外退去を命じられた 

ベトナムのクオンデ侯は1909年10月30日、神戸港発の日本郵船の客船「伊豫丸」

で上海経由香港に向かうことになった。ベトナムにはもちろん帰れない。落ち行く当ての 

ない流浪の旅の始まりである。

クオンデは出発前に世話になった犬養毅のもとを訪ねた。日仏協約の締結は日露戦争の戦

争債券償還のための借款が目的であり、また、フランスと今ことを構えれば、日本は欧米

諸国がもつ東南アジアの市場から締め出されてしまう。その辺を理解してほしいという犬 

養毅の言葉であった。

内務省はクオンデを伊豫丸出港日の30日、新橋駅発の汽車に乗せ、船を門司まで追いか

けて乗船させた。クオンデが出国をいやがるのは当然で、すでにフランスはシュレテ(

密警察)を動員して出国の情報をキャッチし、反逆罪の首謀者として逮捕の準備を整えて

いた。

伊豫丸は11月3日、上海に入港した。しかし、クオンデは下船しなかった。波止場には

それと分かるシュレテがひそみ、乗客を検問し、ときには身体検査もした。夜は夜で、水

上艇が数隻でてサーチライトで伊豫丸の周辺を照らし続けた。泳いで脱出するのを警戒し

ての措置である。

翌日、フランス総領事が上海の日本総領事館を訪ねてきた。「伊豫丸にクオンデ侯と2人

の従者が乗っていることは確かめた。3人の偽名を教えろ」という。日本側が意図的にこ

の政治犯をかくまえば、借款問題も極めて難しくなるだろうという脅しもにおわせた。

応対した総領事代理・松岡洋右(まつおか・ようすけ)は、このとき29歳であった。実際は 

クオンデの身柄保護にかなり奔走した。松岡は伊豫丸の出港をまってフランス側に3人の 

偽名を教えて、日仏協調を演じる一方、日本人の複数のボーイがシュレテに捕まり、持ち  

物まで調べられた事実をフランス総領事に詰問もしている。実はこの調べられたボーイの 

中に変装したクオンデも含まれていて、きわどい脱出劇だったことが後に判明している。


クオンデはその後、欧州などに逃避の旅を続けるが、第一次大戦のさなかに再び日本に戻 

(1915年、30歳)、新宿中村屋の相馬愛蔵、黒光(こっこう)夫妻のもとに身を寄せる。

第二次大戦中に日本軍がフランス植民地軍を倒したとき、さらには、南ベトナム政府の成

立時など、クオンデには凱旋帰国の機会が幾度かあった。日本で終戦を迎えたクオン・デ 

はフランス政府による逮捕の恐れあり隠遁生活の毎日であった。1950年帰国の機会があっ

たが船は上陸できずバンコクから戻ってきた。しかし、国際情勢は一度も彼に ほほ笑ま 

ないまま1951年、東京・日本医大病院で肝臓癌のため死去する事になる。

*大国ロシアに勝利した日本が犬養毅暗殺後軍部が権力を拡大し次第に中国をはじめ南方

方面に軍部植民地拡大を目指すことにベトナム独立の野望を日本に求めることに限界を感

じてきた。最後まで日本が仏印進駐後ベトナム独立を支援するものと信じていた悲劇。

レ・テイ・チャン LE THI TRAN 1883~1993年(クォン・デの妻) 73歳の生涯 息子2人と14年監禁

          2002年家族によってファンボイチャウ墓地に墓をたてる。フエ随一と呼ばれる美貌

          の持ち主。クォン・デとの間に2人の子どもがいる。 長男チャン・リエット 次男チャン・  

          クー 1956年遺骨引き取りのため来日(日本の世話役安藤ちゑのと面会)

          ベトナム帰国後サイゴンではもと王朝臣下ゴ・デイン・ジェム大統領が出迎える。

          クオン・デの墓は2004年孫家族によって山中に設営(社会主義体制で秘密裏に移設)

          長男の墓はクオンデの墓の前にある。

クオン・デと日本女性

中田貞子   本郷区追分町の隣人、中田家の長女、教育者 片想い

相馬千香   新宿中村屋の次女 インド革命家ビハーリー・ボースと結婚した長女に刺激を受ける。

         庭に大きなアトリエがあり画家が集まった。千香はよくモデルとなった。

安藤ちゑの  女中と同棲 クオン・デとは30歳違い 通訳を兼ねる。内縁関係にあった。

         1956年遺骨を引き取りにきた息子に面会。ひそかに遺骨を分骨した?

          台北での家族との集合写真がクオン・デにとって致命傷となった。(誤解)



 

       

       

 

 





王宮太和殿
王宮太和殿
フォンニャ洞窟
フォンニャ洞窟
ホイアン日本橋
ホイアン日本橋
ミーソン遺跡
ミーソン遺跡