ファム・カク・ホエ(グエン王朝最後の皇帝バオダイ帝の官房長官)の記録から
*フエ王朝の重臣でありながらベトナム独立、皇帝退位を促進
1フランス軍は日本軍(金子昇大尉、片野建四朗)に降伏。戒厳令を実施(1945年3月9日 フエ)
2日本国政府との交換条件に大東亜共和圏の設立に協力するという文章。(3月10日)
広く人材を民間に求める。(含むサイゴンのゴン・デイン。ジェム)内閣改造を目指す。
3すでにドイツは連合国に降伏しており親日、親フランスのメンバーが内閣に入る。
内閣総理大臣チャン・チョン・キム(親日)
4北部で抗日運動が盛んでベトミンの革命政権ができているにも関わらず御用内閣で再び優雅な
王朝生活へ戻る(狩猟、賭け事等)フエの内閣は7月までこの状況を把握していなかった。
5ベトミンの台頭、内閣への不信 8月6日内閣総辞職 8月15日日本国全面降伏
6ベトミンへの政権委譲を決定(国王退位は未解決)パオダイはフエでの内閣組閣を希望
ロシア、フランスとの違いは王を生存させて政権委譲、退位させたこと。
バオダイは聖人革命家グエン・アイ・クオクがホーチミンと同一人物であることに共感
7フラッグタワーの黄色旗(グエン朝)に変わり金星紅旗が掲揚される。(8月22日夜)
8臨時革命政府(ホー・チー・ミン)からの最後通告(8月24日)
9バオダイは世祖廟で政権委譲の報告を実施(8月26日)文武百官は欠席文武四官のみ列席
10革命政府代表団がフエに来訪パオダイとの謁見(8月29日)退位式(8月30日)
11臨時革命政府ホーチミンがハノイで独立宣言(9月2日)
12バオダイ(ヴィン・トウイ氏)帝とホーチミン主席ハノイで面会(9月5日)
バオダイの退位はホー主席が王朝生活の継続を期待したうえでの退位だった?
南方でフランス軍との戦いは続いている。パオダイ帝の王朝生活はハノイでも変化なし。
13ベトナム国民党からバオダイ大統領擁立の意見(バオダイ拒否)。ベトミン随伴で中国短期滞在
その後、中国亡命
14フランスと停戦(3月16日)
15革命政府とフランス代表団との停戦会議(南部ダラット)4月17日~5月11日不平等会議、ベトナ
ム側抗議フランス側は結論を棚上げ交渉を遅延させる。
インドシナ連邦の処理(ラオス、カンボジア)少数民族のキン族化(ベトナム側)
16パリ会議出発(5月31日~10月4日)インド、エジプト経由でビアリッツ到着(6月12日到着)
ベトナム代表団6月16日パリ到着 6月22日ホー主席パリ到着
両国代表会議フォンテンブロー提案、議事進行にベトナムは難色を示す。7月6日会議開始
インドシナ連邦:ベトナム側は経済敵利益 フランス側は政治、軍事、外交を固守
ベトナム・フランス暫定協約を締結 9月13日パリを離れ14日マルセーユから帰国
17暫定協約を破棄しフランス軍はテロ攻撃を開始、ベトナム抗戦活動開始 1946年10月3日
18フランス軍事行動予告、威嚇 1946年12月
19フランスインドシナ連邦パオダイ帝(香港在住)懐柔を開始
20ハノイからの疎開に失敗したファム・カク・ホエは投獄。47年1月28日フランス軍によってサイゴン
へフランスのファン・カク・フエ氏への懐柔。ホエ氏は一貫してフランス批判を主張(フランス側は
ベトナム独立を認めたとしても共産化を避けて欲しい。バオタイ帝の復権希望)
パオダイの側近チャン・チョン・キム前内閣総理大臣サイゴンでホエ氏に接近復権を打診
パオダイ帝の兄ズイ・タン帝に妹を介して懐柔。事実上ホエ氏はフランスの人質
サイゴンでバオダイ復権の記事が出回りホエ氏の関与が出る。
21フランス側から正式にバオダイ復権の提案(ホエ氏拒否)47年3月21日
3月24日フランス側の要請でダラットに移動(事実上の監禁)
ゴー・デイン・ジェム氏フランス側の要請受諾(バオダイの側近による復権主導)
22ホエ氏ダラットからサイゴンへ移動(47年4月15日)17日フランス軍飛行機でハノイ移動
23ベトナム・フランス合同会議失敗(1947年5月14日)
24グエン王朝官吏から革命政府の高官へと転身したファン・カク・フエ氏は革命軍の誘導で脱出
1947年8月25日~9月4日の脱出劇でホー主席に面会革命政府に合流。
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戦時中ベトナム人200万人餓死事件(飢饉は1945年まで続いた)歴史認識は未解決
フランス、日本2重支配を続けた結果の餓死とのホー・チ・ミンの発言
日本軍国主義のベトナム人民に対する大罪(1940年からの5年間)教科書掲載
当時は干ばつが続いた時代だったが収穫はゼロではない。少ない収穫を日本政府が取り上げた。
日本軍の進駐(1941年7月)は中越国境から重慶の蒋介石への物資補給ルートを遮る目的があっ
た。 稲作用の田を軍事目的の麻袋の原料黄麻(ジュート)などに作物転換で田が減った。異常気
象