ラオス、中国国境に近い周囲を高い山に囲まれた盆地。1954年ベトナムのベトミン軍は57日間に及ぶ戦いで歴史的な勝利を勝ち取りフランス植民地支配を脱した。
ランソン省省都ランソンから20キロで中国国境の町ドンダン
中国国境からベトナム北部1100kmはカルスト台地で石灰岩が多く奇妙な形をした連山、洞窟が続く景勝の地が多い。紛争時国境近辺は村が2分され敵同志になる不幸な歴史があった。1979年中国軍はベトナムに侵攻(中ソ対立で中国はアメリカと組みカンボジアのポルポト派を支援。ベトナムのカンボジア侵攻により中越紛争が勃発17日間)
カオバン省の国境バクボはホーチミンが秘密基地として利用したバクボ洞窟があり革命の指令を出していた。
ベトナム航空、国内線2路線をVASCOに引き継ぎ
ベトナム航空は2016年から、ハノイ~ディエンビエン(西北部地方ディエンビエン省)線の運航をVNA傘下のベトナムエアサービス社(VASCO)に引き継ぐ。これにより、VASCOは2016年1月1日より、ハノイ~ディエンビエン線を週14便で運航する。出発時刻は変更なしで、機材はATR72型機を使用する。2015年までの運航状況は下記の通り
ハノイーデイエンビエンフー VN1702 9:45/10:45 VN1704 13:10/14:10
デイエンビエンフーーハノイ VN1703 11:25/12:25 VN1705 14:50/15:50
*ハノイノイバイ空港でのチェックインは2階出発ロビーカウンターではなく国内線到着右1階カウンターで受け付けとなります。(2012年9月現在)
デイエンビエンフーは南北25km、東西6km、海抜500m、周囲は石灰岩の山が連なる。この区間はATR72プロペラ機の運行になります。雲が厚い時は着陸が困難で盆地の周囲を旋回する。天候異変等で欠航がありますので事前に航空会社に確認して下さい。(デイエンビエンフーの空港は過去、日本軍が建設)
Muong Thanh Dien Bien Hotel
DC514-715 Street Dien Bien Phu City Dien Bien Prov
電話 0230-3812556 Fax 0230-3810713
E-mail midbhotel@gmailcom
www.moungthanhdienbienhotel.com
市内ホテルで殆どの施設が揃っているデラックスホテル
主な見学地
デイエンビエンフー博物館(現在休館中、2012年9月現在)
A1の丘(仏軍が立てこもった丘)フランス、ベトナム軍の戦車、飛行機の残骸、機関砲等展示(市内)
ド・カストリーの司令部後 フランス軍の総合司令本部 (市内)
勝利の記念像(フランス軍との戦い戦勝50周年の記念像、312段の階段市内一望の丘)(市内)
チュンタム市場(市民の胃袋、生鮮食料品及び衣類等)(市内)
ナファット村少数民族(タイ族)市内から車で2時間、デイエンビエンフーはタイ族の世界
1954年3月12日~5月8日
1953年11月20日、ハノイを発進したフランス軍落下傘部隊(3000人)が、小規模のヴェトミン兵が守備するディエンビエンフーに降下し、すぐにフランス軍の手中に陥ち、その後11月下旬には、まず第1外人落下傘連隊がこの盆地に送り込まれ、補修された旧日本軍のディエンビエンフーの飛行場に、後続部隊を乗せた輸送機が連日のように飛来し、作戦開始数週間のうちに、ディエンビエンフーのフランス軍総兵力は、1万名を超し、最終的に17個歩兵大隊中、7個大隊がフランス外人部隊となった。
これに対し、ヴェトミンの兵力は、ディエンビエンフーに集中されていき、ヴェトミン軍の第304、第308、第312、第316の4個師団が投入され、盆地周辺の丘陵には密かに陣地が構築されていった。1953年12月末、偵察中の第1外人落下傘大隊が、初めてヴェトミンの待ち伏せ攻撃を受け、12月28日には、北部峡谷を視察中のド・カストリ司令官の参謀長ギュット中佐が、砲火を集中されて戦死する。ヴェトミン軍による包囲網は急速にフランス軍陣地に迫り、1954年3月12日、ボ・グエン・ザップ将軍率いるヴェトミン軍は主滑走路への砲撃を始めディエンビエンフー攻略を開始する。フランス軍の予想を超えた盆地周囲の山上からの砲撃のもと塹壕で接近を図り、複合陣地を順次攻め落としていった。
ディエンビエンフー要塞の東北方面にはベアトリス陣地があり、この陣地を指揮していたのが、フランス外人部隊第13准旅団長のゴーシェ中佐で、当初滑走路に砲撃が加えられていたが、3月13日17時過ぎには、ベトナム軍の砲撃がベアトリス陣地に集中され始め、ヴェトミン軍は保有していないと思われた105ミリ榴弾砲による砲撃が始まり(ヴェトミン軍が、1949年に中共軍が中国大陸を制圧すると、ヴェトミンへの軍事援助の質が改善し、ソ連製の対空機関砲や、国民政府軍から捕獲したアメリカ製の105ミリ砲もヴェトミン軍は保有していた)、ゴーシェ中佐は戦死。夜零時過ぎにベアトリス陣地は陥落した。このゴーシェ中佐は、1945年の日本軍による仏印処理の際、第5外人歩兵連隊の第1大隊を率い、雲南へ脱出(当時は大尉)し改編された部隊を率いて1946年インドシナに戻った人物。
1954年3月15日の早朝から、第1外人落下傘大隊の2個中隊、第5ヴェトナム人落下傘大隊によるフランス軍の反撃も開始されたが、失われた拠点の奪回はできず、その後も第3外人歩兵連隊の1個連隊が守備するラレーヌ陣地(アンヌ=マリの陣地の一角)が大激戦の末、陥落(3月25日)。他の陣地を守備するフランス軍の中のタイ族部隊やヴェトナム兵部隊、またアルジェリア兵やモロッコ兵などの植民地兵や現地兵たちの戦意は低く、実際にフランス軍の戦力として残ったのは、外人部隊とフランス軍落下傘部隊になり、その外人部隊兵の多くは、前の大戦でのフランスの敵国だったドイツの軍人たちだったといわれる。
1954年4月に入ると、滑走路の一部はヴェトミンが占領し、フランスがおさえていたハノイから送られる増援部隊と物資の補給は空からの落下傘によるしか手段がなくなってしまう。4月9日から10日の夜半、第2外人落下傘大隊の700名強が、リーゼンフェルト少佐に率いられ、クロディーヌ陣地に降下する。続いて第3外人歩兵連隊や第5外人歩兵連隊からの志願者が落下傘降下の経験がないのに数百名夜間に初降下する。雨期のため水浸しの塹壕陣地での悲惨な戦いが続けれらたが、ついに1954年5月7日のヴェトミン軍による総攻撃により、最南端のイザベル陣地以外の全要塞が陥落。5月8日の午前中、ド・カストリ将軍の司令部にヴェトミン兵が突入し、ド・カストリ以下1万人近くが捕虜となって戦いは終結し、4月26日に始まったジュネーブ会議の行方に大きな影響を与えた。この戦いではフランス軍の損害は、戦死行方不明が2700名、負傷4400名であり、その3分の1以上が外人部隊で、一方、ヴェトミン軍の損傷は、戦死7900名、負傷1万5000名に上ったといわれる。