タートルアーン寺院(ビエンチャンのシンボル)丘の上、黄金の塔(45m)
タートルアン(That Luang)はラオス仏教の最高の寺院で、ラオスの象徴とも言える。伝承では3世紀頃インドからの使いの一行がブッダの胸骨を納めるためにタットルアンを建立したと伝えられるが、定かではない。その後、1566年にセタティラート王(King Setthathirat)により、四方を四つの寺院に囲まれる形で再建されたが、現在は北と南の寺院が残るのみである。北の寺院、ワットタートルアンヌアはラオス仏教界最高位の僧侶の住まいである。1828年にシャムの侵攻により損傷を受けたが、1936年に改修されて現在に至る。
パトウーサイ(アーヌサワリー)凱旋門
ランサン通りLane Xang Ave.にあるパトゥーサイPatousayはパリの凱旋門を模して作られた。ラオス語でパトゥーとは「扉」「門」の意味、サイとは「勝利」の意味である。下から見上げた天井にはラオスの典型的なモチーフ、神々や3頭の像などのレリーフがある。もともとは戦没者の慰霊碑として1960年から建設が始められ、新空港建設に使用されるはずだったセメントで建てられたものである。朝の8時から夕方5時までの間は上に上ることが出来、ヴィエンチャン市内を一望できる。
ワットシームアン
友好橋から来たタードゥア通りが、サムセンタイ通りとセタティラート通りに分岐するY字路に立つ寺院です。1560年にビエンチャンに遷都してきたセタティラート王が1563年に寺院を建立するためにここで土台の穴を掘っていたところ、大きい石が出土しました。しかしこの石を網で結わえて引っ張り出そうとしても、ビクともしない。それを見ていたシーをいう名前の若い妊婦が、自ら人身御供となって穴に飛び込んだところ、網が切れても石の穴の中に落ちた。そういう伝説から、“シーの町( ムアン )という名が付けられました。
ワットポーパケオ
1565年にセタティラート王の命により、建立された。王の父、ランサン王国のボティサラート王の死により、セタティラートが王位を継承後、王国の首都をルアンパバンからヴィエンチャンへと遷都した。その折、エメラルド仏(パーケオ)を旧王都から移し安置したのがこの寺院である。当初は王の祈りの場所として建立された寺院であったが、1779年、シャム王国との戦争によりた建物は焼失し、エメラルド仏は持ち去られた。1936年に現在の建物がフランスによって再建された。現在は博物館として使用され、国内各地から集められた仏像などが並べられている。中庭にはジャール平原から運ばれた石の壷もある。
ワットシーサケート
ワットシーサケットは1818年、King Anou Vongによって建立。ヴィエンチャン最古の寺院で、市内で唯一、建立された当時のままの姿を保つ。本堂と回廊の壁を合わせると6,840もの仏像が安置されている。その殆どはが度重なる戦いによって、目に嵌め込んでいた宝石類や頭部の金細工等が取り去られているが、一部残っているのもある。
ラオス国立博物館
ジャール平原の壺などの遺跡からはじまり、ヒンドゥー教のレリーフ、数々の仏像、さらには社会主義革命の展示品まであり、ラオスの文化と歴史を総合的に一望できる場所。布やカゴなどといった民具も展示されており、興味深い。
タラートサーオ
タラートサーオは市内最大のショッピングセンター。タラート(市場)サーオ(朝)朝8時から夕方4時まで開店。日常雑貨から宝石、電気製品、特産の絹、木綿手工芸。その他街の北にはメコンで水揚げされた魚も並ぶタラートトンカンカム(生鮮食料市場)がありタラート・サーオの隣には庶民的な食品の青空市場がある。
ナンプ広場(街の中心)噴水広場 サームセンター通り 東西一方通行 |
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セーターテイラート通り 西から東一方通行 |
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ファーグム通り メコン川沿い |
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ラーンサーン通り(南北通り) |
旧関東軍大本営参謀辻政信はラオスビエンチャンのお寺ワット・インペンという大きな寺に戦犯を逃れラオスで坊主として隠れ時効になった頃に日本に帰国国会議員にまでなったと言う。その後はラオスで姿を隠したまま消息がわからないという。すべてが不明、謎の人物。ラオスでは旧陸軍の話が多い。ラオスの革命を手助けした山根、赤坂氏はこの国でかなりの地位まで登ったらしい。